2009年11月10日 (火)

大きなオレンジ色のフタ

道路の片側一車線の幅とほぼ同じ径の大きなフタを見つけた。

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ふつう、道路なんかにあるフタは、60センチくらいの径が一般的です。

私は、このフタを観察し、しばし思いに耽った。

このオレンジ色、あきらかに注意を促しています。

その注意とは、「ここに大きな穴があります。しかし、大丈夫。フタをしていますから、心配いりません。」、というようなもの。

しかし、世の中、絶対に大丈夫ということはない。

クルマのドライバーは、大丈夫だとは思いながらも、一抹の不安を感じながら、このフタの上を通過する。

このフタが仮のものであることは容易に理解できる。

けれども、フタのまわりのアスファルトの一部がはがれてきているし、いつまでこのままの状態で放置しておくのだろうか。

そもそも、なんの工事なのか。それに、途中で中断するなんて。そして、オレンジのフタなんかしちゃって。

オレンジ色の影響か、へんにテンションがあがります。

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2009年11月 8日 (日)

揚げたてのメンチカツとビール

食べることは、生きることだ、と、その人生において、多くの経験を積み重ねてきたであろうベテランの料理研究家がテレビで言っていた。

私は、一見シンプルだけれども、そこには深い意味があるに違いないと、勝手にこちらが推測して、考え込ませられてしまう、こういった言葉が好きだ。

じっさいの話、近ごろの私は、もちろん食べているには食べているが、なにを食べるかということについては、以前ほどの熱意はなくなってきていた。

これではいけない。私は料理研究家の言葉を強く意識した。

もう一年くらい前のこと、私は妄想といえるほどの、ある食べ物についてのアイデアを持っていた。

そのアイデアとは、惣菜屋さんの揚げたてのメンチカツをすぐさまビールとともに食べるということなのです。

しかし、惣菜屋さんの揚げたてのメンチカツを、受け取ったその場で、ビールとともに食べるなんてことができるのでしょうか。

そして、その実行は無理であると思った私は、メンチカツのアイデアを心の奥にしまい込んだのでした。 

ところが、料理研究家のあの言葉とともに、そのアイデアはいみじくも復活しました。そして、必ず実行するという決意とともに。

実行の当日、まずビールの準備です。保冷バッグのなかに保冷剤を入れます。このなかにビールを入れればいいのですが、ビールがない。近くの酒屋の自動販売機で缶ビール2本を調達しました。これでだいじょうぶ。

さて、教えてもらった惣菜屋さんに出向きます。ところが、惣菜屋さんではなく、近江牛の看板が掛かっている肉屋さんです。近江牛といったら、あの高級肉で有名な近江牛です。

このような肉屋さんに、メンチカツなんて売っていないんじゃないかと、思ったが、店のなかを覗くと、ケースのなかにそれらしいものを見つけた。

店のなかに入って、ケースのなかにメンチカツがあるのを確認した。しかし、メンチカツはまだ揚げていなかった。

「揚げたメンチカツはないですか?」、と聞いた。

「これから揚げます。」、とオカミサンらしき人が答えた。

これから揚げるということは、なんと、ほんとうに揚げたてのメンチカツを食べることができるということじゃないの、と私の期待は膨らんだ。

1個120円のメンチカツを2個たのんだ。240円という金額の少なさに、ちょっと恐縮した。

となりのケースを覗くと、100グラムで1570円の近江牛のサーロインステーキが売っていた。いつかは食べてみたいものだと思ったが、いまはメンチカツだと、気持ちを引き締めた。

ほどなくして、メンチカツが揚がり、それを受け取った私は、「おおきに」という言葉を背に受け、店を出た。そして、なぜかしら、近江牛を買うときは、この店で買うことにしよう、と思った。

さて、揚げたてのメンチカツをすぐさまビールとともに食べるということなんです。さすがに肉屋さんの前で食べることはできません。近くに公園があったので、そこに行きました。

ベンチに腰掛け、保冷バッグからビールを取り出しました。そして、揚げたてのメンチカツを紙袋からひとつ手に取り、ひとくち、ガブリ。

コロモはサクサク、なかはアツアツ。ビールはヒエヒエ。

11月に入ったとはいえ、すこし暑さを感じる日差しのなか、公園のベンチに腰掛けて食べる揚げたてのメンチカツと冷えたビール。日常の生活において、これ以上の歓びを求めてはいけない。

「食べることは、生きることだ」、という言葉とともに、「食べることは、歓びだ」、という言葉が私の脳裏をかすめた。

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2009年11月 7日 (土)

野生のこと

なんとはなしに、野生のことを考えていた。

人がもっている五感のうち、もっとも野生的のものはニオイをかぐ嗅覚じゃないのかな、と、なんの根拠もなく、そう思った。

イヌなんか、いつもクンクンとニオイをかいているじゃないの。

でも、家で飼われているイヌが野生的であるかどうかの、疑問は残っているのですが。

以前、よく山に登っていたころ、山のなかに入ると、聴覚が研ぎ澄まされるような気がした。うっそうとした木々に遮られて、目に入ってくる情報量は少なくなる。そうすると、それをカバーするために耳から情報を得ようという気に、なるもんなのです。

カサコソ、という音が聞こえたら、近くに小動物がいるのです。ちょっと、要注意。

動物の鳴き声にも注意を払わなければいけません。

サルが群れに警戒の鳴き声を発したら、こちらも警戒を怠ることはできません。でも、サルに敵意を見せることは禁物です。何にもなかったかのように、その場を離れることがいちばんです。

ということで、2番目に野生的な五感は聴覚であると、これまた勝手に決めつけた。

そういってみれば、「風の歌を聴け」、なんていう小説もあったじゃないの。あれって、野生と関係があるのかしら。

まてまて、野生といえば、「野生時代」という文芸誌があったなあ、なんてことを思っていたら、復刊して、いまでもあるらしい。

このようにして、いつもながらの、とりとめのない、雑念ともいえる私の「思い」が続くのでした。

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2009年11月 5日 (木)

宇多田ヒカルのこと

日本の音楽界におけるスーパースターである宇多田ヒカルのことについて、あらためて何やかやと言うことはないし、その資格も私にはない。

しかし、インターネットの動画サイトで、尾崎豊の「アイラブユー」をコンサートで歌っている宇多田ヒカルを見たとき、どうしても何かを書きしるしたくなった。

それは、どうしたら、あのように情感をこめて歌うことができるのか、ということなのです。

あるときは、かすれがちに打ち震える歌声となり、またあるときは、のびやかに、あるいは躍動感あふれる歌声となっている。

歌声から発せられた宇多田ヒカルの情感が、この私の心に響き、そして、自然と涙する。

聞くたびに、そういったことの繰り返しなのです。

かなりの読書家ということらしい。日本の古典なども読んでいるみたいで、そういったことも影響して、感性とかのメンタルな面が育まれたのであろうか。

いま現在、宇多田ヒカルはアメリカで、二枚目のアルバムとなる「This Is The One」を発売して、そのプロモーションのため精力的に活動しているらしい。

こんなことを言ってはなんですが、アメリカの「Utada」より、日本の宇多田ヒカルのほうが、私にとっては好ましいのです。

アルバム「This Is The One」のなかの「Come Back To Me」では、私は涙することができない。

しかし、アメリカで成功してもらいたい、という思いもあるのです。

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2009年11月 3日 (火)

東京DOGSのなかの金時

フジテレビのドラマ、「東京DOGS」第3話を見た。

富士市のそば屋さん「金時」が出てくるかどうかを確認したかったのだ。

そうしたら、いきなりドラマの前半に出てきた。蒲田食堂という設定であったはずだが、出てきた食堂の名前は画面では確認できなかった。

しかし、その食堂は、あきらかに金時だった。

テーブルの位置などを変えているのかと思って見ていたが、どうやら変えていないようだった。

私の興味は小栗旬がどこの席に座るかということだった。

驚いたことに、なんと、私が座った席と同じであった。

このドラマの金時でのロケは10月10日の夜に行なわれており、同じ日のお昼頃、私は金時で名物のカツ皿を食べた。

そして、小栗旬が私が座ったのと同じ席で食べたものは、アジの塩焼き定食だった。

そうだった、ドラマでは金時ではなく、あくまで蒲田食堂であった。

もし、ドラマでカツ皿が出てきたら、あまり一般的でないため、それを説明する必要がある。そのようなことをすると、ドラマの内容と少しずれてくる。

ですから、アジの塩焼き定食なのです。なんの説明もいりません。

さて、金時でロケをしているという情報があっという間に広がり、店の周辺は集まった多くの人で大混雑したということです。

そんななかで、小栗旬を含め、ロケの関係者が金時の食べ物を味わうなんていうことがあったのでしょうか。そんな余裕があったとは思えないのです。

そのことが、すこし残念なのです。

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2009年11月 1日 (日)

体ってこうやって使うんだ

人はいろんな場面でいろんな動作を行なう。

しかし、その動作は突発的になされたものではない。それはある程度の経験、あるいは訓練を要する。ある動作を行なうためには、脳にその動作をすりこむ必要があるのです。

ですから、極端な話、その人の動作を見れば、その人の今までの人生が垣間見えてくる。

すこし前のこと、町の自転車屋さんの店頭で、自転車のタイヤに空気を入れている女性を見かけた。

この自転車屋さんでは、店頭に置いてあるタイヤの空気入れを自由に使うことができるのです。

その女性のタイヤに空気を入れる動作を見て、なにか違うと感じた。

リズミカルな、そしてパワフルで、タイヤに空気がガンガン入っていく感じです。

普通ならば、空気入れ上部の横棒をつかんだ両腕だけを上下させるという動作なのですが、その女性は全身を上下させていた。

正確にいうと、両足を上下させ、その結果として上体が上下し、空気入れの横棒つかんでいる両腕も上下するということなんです。

私はしばらく、その動きを眺めていた。すばらしい、自転車のタイヤに空気を入れるとき、体ってこうやって使うんだ、と感心しながら。

そして、動作から人生が垣間見えてくる話なのです。

そういったパワフルな動作をする女性って、人生にたいして前向きな人なんだろうな、と想像した。

そして、誰とは知らない、その女性のことを少し好きになった。

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2009年10月30日 (金)

館山中村屋のあんパン

房総半島の南端に位置する館山市に、私のこだわりのパン屋さんがある。

JR館山駅のすぐ近くにある、このパン屋さんの名前は館山中村屋です。

このパン屋さんの存在は、館山出身のご近所の人から聞いた。

「館山に行くんなら、中村屋に寄りなさい。美味しいパンがあるわよ。」、なんてことを仰った。

それで、夏の海のレジャーで館山に行ったとき、中村屋に寄ってみた。

なにか懐かしい雰囲気のするパン屋さんだった。売っているパンもシンプルな感じのパンだった。

何を買ったのかは、今となっては忘れた。もう、だいぶ前のことで、たぶん、あんパンを買ったのでしょう。私はあんパンには目が無いのです。

館山中村屋のあんパンは、子供の頃に食べたような、懐かしい味がするのです。私はこのあんパンが気に入ったのです。

当時、館山には夏の海のレジャーで毎年のように訪れていました。そして、館山中村屋を知ってから、館山に行く楽しみが増えたのでした。

ある年の夏、館山の公共の宿に宿泊していたのですが、朝食の開始時間が遅かったのです。 

それで、お腹のすいた私は中村屋に行く決意をしたのです。宿からクルマで20分あまり。

中村屋の開店時間は7時前でしたから、それに合わせて出かけました。

中村屋で買ったのは、もちろんあんパンです。宿に戻ってきて、食べたあんパンのおいしかったこと。

それから宿の朝食も、おいしくいただきました。

これ程までにして、あんパンを食べたいのかと、お思いでしょう、それも朝食の前に。

しかし、あの時は食べたかったのです。

それほどに魅力的な館山中村屋のあんパン、ということです。

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2009年10月27日 (火)

フィルムコミッション富士と金時

ここで、10月14日の「金時のカツ皿と小栗旬」の記事の内容訂正をいたします。

フジテレビのドラマ「東京DOGS」の撮影が、富士市のそば屋さん「金時」で10月11日に行なわれたと書きましたが、じっさいは10月10日でした。ですから、私が金時でカツ皿を食べた、その日の夜に撮影が行なわれたのでした。

それで納得です。店の入り口の戸に貼ってあった、貸切の予告の貼り紙のことです。翌日の貸切の予告の貼り紙なんて、一般的ではないとは思っていましたが。

ところで、記事を書いたときの疑問が少し解けました。

金時がドラマでの「蒲田食堂」に選ばれた理由です。

これにはフィルムコミッションという、映画などの撮影場所誘致や撮影支援をする公的な機関が関与していたのです。

今回の場合は、フィルムコミッション富士というNPO法人なのでした。

フィルムコミッション富士は、映画などの撮影場所誘致や撮影支援をとおして、富士市の経済、観光、文化などの地域振興に貢献することを目的として設立されたのです。

ですから、富士市の金時なのです。金時は富士市では有名ですから。 

さて、フィルムコミッション富士のホームページの情報によると、「蒲田食堂」は東京DOGSの第3話に登場するらしいのです。

ちょっと、見逃せない。

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2009年10月25日 (日)

詩的なメモ

ちょっと前までは、なにかを見たとか、経験したとかしたとき、感情の高まりに応じて詩的なインスピレーションが湧きあがってきたのだが、最近はどうも詩心が錆びついてきたようで、感情の高まり具合が低くなったようだ。

かなり前のこと、NHKでハワイアン・ダンスを見て、このようなメモを残した。

テーマ:踊り子の秘めたる情熱、生の喜びと愛の賛歌

     (NHKのハワイアン・ダンスを見て)

けがれ無き肉体の芯よりいでたる情感の

そのほとばしりを表現したる舞姫よ

あなたの迷いは大きいですか

あなたの悲しみは深いですか

いく世代も受け継がれたる

言葉無き生の律動

おおいなる愛の賛歌

夢見る心地で浸りたい

ところで、最近のメモを見直していると、このような言葉を書きしるしてあった。

夢の跡

そこにあるのは止められたままの記憶と消費された時間だけ。

どんな時代でも、人には夢が必要だ。

これは雑誌の記事から抜き出しておいたもので、この言葉からの詩的なインスピレーションの高まりを期待したが、今のところ、そのようなことはない。

ふたつのメモから分かるように、つまるところ、私における詩心とは、夢と密接につながっているようです。

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2009年10月24日 (土)

九九のこと

小学校の頃に覚えさせられた、あの掛け算の九九のことです。

ほかの国でも、九九かと思ったら、これが違うのです。

欧米では12の段(12×12)まで覚えるらしい。ちなみに近くにいるタイ人に聞いたところ、12の段まで覚えるという。欧米人じゃないけれど。

タイ人ってすごいんじゃないの、と言ったら、覚えるのは簡単だという。

なるほど、確かに10の段の場合、10×1=10、10×2=20、・・・・10×12=120、となって簡単そう。

さらに、11の段も、11×1=11、11×2=22、と続き、覚えるのは比較的簡単そう。

12の段はというと、12×1=12、12×2=24、12×3=36、と続き、覚えるのは簡単なような、でないような微妙なところ。

ところで、九九を覚えることの世界チャンピョンはインドのようだ。20の段(20×20)は覚えるらしいが、それ以上、たとえば(40×20)まで覚えるとか、とにかくすごい。

それに、もっとすごいのはゼロの段を覚えるということ。0×1=0、0×2=0、と続くのですが、これを覚えることによって、ゼロの存在を認識できるのです。

これって非常に数学的で、もう、インドには算数も、数学もかなわないって感じです。その証拠に東京あたりでは、IT関連のインド人技術者が多数いらっしゃいます。

さて、わたしが興味をもったのは、中国の九九の覚え方なんです。

簡単にいうと、2×3=6、と覚えたら、3×2=6は覚えない。ニサンガロクと覚えたら、サニガロクは覚えない、ということらしい。

このことを知り、私は、いたく感銘を受けたのでした。

というのは、九九の9の段のことなんです。たとえば、9×6=54、クロクゴジュウシなんて、言いづらいし、実際の計算でもロックゴジュウシと言い換えて使っているのです。

ですから、9の段で覚えなければならないのは、9×9=81、ククハチジュウイチだけということになります。

すごい!、中国の九九の覚え方、といったところ。

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